新年 [風景]
富士宮牧場
皆様あけましておめでとうございます、今年も相変わらずのお付き合い宜しくお願い致します。
年末には沢山のコメント頂きありがとうございました、ブログをやっていて張り合いが出来ました.今年はもっと皆さんに見ていただけるように頑張ります。
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新年は5日までブログをお休み致しますので宜しくお願い致します、5日にはアップして居りますのでご訪問宜しくお願い致します。
kousaku
ダム湖畔の晩秋! [風景]
紅葉を求めてダム湖へやってきました、こちらも今年はちょっと紅葉が遅いようでしたが葉は枯れ気味ですが紅葉に成って居ないんです、友人が今年は南禅寺等も赤く成るのが遅いと云っておりましたが矢張り今年は異常なんでしょうかね。
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この時期にこんな花が咲いておりました(百合)
昨日富士山が雪に包まれていました、平地は雨でしたが富士山では雪が降っていたんです、
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ご訪問ありがとうございました。
今年の締めくくりは薔薇の花でお楽しみください。
比叡山延暦寺散歩!03 [風景]
簡略な歴史
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。
特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。
日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。
延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。
開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。
比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。
また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。
なお、長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が817年に設けた「広済院」があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」がある。
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つづく
ご訪問ありがとうございました。
比叡山延暦寺散歩!02 [風景]
簡略な歴史
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。
特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。
日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。
延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。
開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。
比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。
また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。
なお、長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が817年に設けた「広済院」があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」がある。
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このような山道をひたすら登ります、
つづく
ご訪問ありがとうございました。
比叡山延暦寺散歩! [風景]
比叡山延暦寺の境内の山内にある1700ヘクタールの境内地を東塔(とうどう)西塔(さいとう)横川(よかわ)をぐるりと回ってみました、車で行きましたので当日は琵琶湖巡りをして琵琶湖の畔の宿に泊まり翌日早くに車で出掛けて下の東塔駐車場へ入れて下から歩きました、まづは山頂へ山を登っていると修行僧の方もやはり歩きです、ケーブルは使わないですね。
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簡略な歴史
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。
特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。
日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。
延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。
開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。
比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。
また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。
なお、長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が817年に設けた「広済院」があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」がある。
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東塔から西塔へそして横川へ・・・
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まづは山頂へ向かいます、
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途中にはお堂や祠がいくつも点在しておりました。
つづく
ご訪問ありがとうございました。
五回までお付き合いください。
お城をみつけた、戦国の城*03 [風景]
小山城(こやまじょう)
永禄11(1568)年、武田信玄はこの地に砦を築き、遠江をおさえる拠点とします。その後、元亀2(1571)年に城郭を備えたのを機に、「小山城」と名付けられました。この地をめぐり、徳川家康との激しい戦いが、何度も繰りかえされましたが、敗北を悟った武田方は城に火をかけ、甲州へと落ちていきました。
上記の歴史から小山城には悲しい伝説があります。
三重堀にある勘介井戸には、赤い口の蛭がいます。敗北を悟った武田軍は城に火をつけ本陣の甲府へ逃げ帰ろうとしました。
その際、当時の大井川の激流を渡るには女子供は足手まといになるだろうと愛する夫の無事・帰郷を祈りながら女たちは自ら井戸に身を投げ、その霊たちは口の赤い蛭へ姿をかえたという伝説があります。
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お城の中に有る展示場には色んな刀等もありました。
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毎年夏には花火大会を行っているらしいです。
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外堀の近くに咲いておりました。
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ご訪問ありがとうございました。
お城をみつけた、戦国の城*02 [風景]
お城の周辺(外観)
小山城(こやまじょう)
永禄11(1568)年、武田信玄はこの地に砦を築き、遠江をおさえる拠点とします。その後、元亀2(1571)年に城郭を備えたのを機に、「小山城」と名付けられました。この地をめぐり、徳川家康との激しい戦いが、何度も繰りかえされましたが、敗北を悟った武田方は城に火をかけ、甲州へと落ちていきました。
上記の歴史から小山城には悲しい伝説があります。
三重堀にある勘介井戸には、赤い口の蛭がいます。敗北を悟った武田軍は城に火をつけ本陣の甲府へ逃げ帰ろうとしました。
その際、当時の大井川の激流を渡るには女子供は足手まといになるだろうと愛する夫の無事・帰郷を祈りながら女たちは自ら井戸に身を投げ、その霊たちは口の赤い蛭へ姿をかえたという伝説があります。
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つづく
ご訪問ありがとうございました。
お知らせ!
プロフィール画像がなんだか分からないと云う事で飼っているハムスターに変えました。
お城をみつけた、戦国の城 [風景]
この日は吉田町へ行きました所お城が目に入りましたので寄ってみました。
チョット調べてみました。
.小山城(こやまじょう)
永禄11(1568)年、武田信玄はこの地に砦を築き、遠江をおさえる拠点とします。その後、元亀2(1571)年に城郭を備えたのを機に、「小山城」と名付けられました。この地をめぐり、徳川家康との激しい戦いが、何度も繰りかえされましたが、敗北を悟った武田方は城に火をかけ、甲州へと落ちていきました。
上記の歴史から小山城には悲しい伝説があります。
三重堀にある勘介井戸には、赤い口の蛭がいます。敗北を悟った武田軍は城に火をつけ本陣の甲府へ逃げ帰ろうとしました。
その際、当時の大井川の激流を渡るには女子供は足手まといになるだろうと愛する夫の無事・帰郷を祈りながら女たちは自ら井戸に身を投げ、その霊たちは口の赤い蛭へ姿をかえたという伝説があります。
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お城の外観
つづく
ご訪問ありがとうございました。
お知らせ!
プロフィール画像がなんだか分からないと云う事で飼っているハムスターに変えました。